2011年12月09日

【あれから70年】

70年の歳月と言えば、現代の人間の1世代に相当する時代が過ぎ去ろうとしているということです。

『日米開戦のきっかけとなった真珠湾攻撃から70年を迎えた7日(日本時間8日)、米ハワイの真珠湾で戦没者をしのぶ追悼式典が開かれた。約120人の生存者を含む5000人が参加した。

【写真】攻撃を受けた直後の真珠湾(1941年)

生存者の1人で、真珠湾攻撃当日は軍艦サンフランシスコで勤務していたマル・ミドルスウォースさん(88)は、「あの日、命を落とした全ての人に最大の敬意を表する」とあいさつした。ミドルスウォースさんはかつて「真珠湾生存者協会」の会長を務めており、「今享受している自由が無償で得られたものではないことを、米国の若者に理解してもらいたい」と続けた。

一方、現在94歳のエドワード・ウェンツラフさんは、日本軍からの機銃掃射と魚雷攻撃に挟まれる米艦を目撃したと話し、「人の焼ける臭いは吐き気を覚えるほどで、いつまでも鼻に付いた」と当時を振り返った。

日本軍によるこの攻撃で、米側の死者は約2400人、負傷者は1178人に上った。10艇以上の米軍艦が沈没または大破したほか、航空機323機が破壊された。中でも戦艦アリゾナは魚雷攻撃を受け、1177人の乗組員が死亡した。』(12月8日付ロイター通信)

【トラ・トラ・トラ】

真珠湾攻撃で思い出すのは、1970年に公開された日米共同制作の映画「トラ・トラ・トラ」です。「トラ・トラ・トラ」とは、「ワレ奇襲二成功セリ」という意味で当時の日本軍が真珠湾攻撃の成功を伝えた電文です。

その原義は、聖徳太子が信貴山にて物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、寅の年、寅の日、寅の刻に毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したという伝説にちなみ、日本の勝利を願って電文を「トラトラトラ」としたとされています。ハリウッド映画を見た当時はそんな原義などまったく知らなかったのですが、先日鹿児島のある住職さんから聞かされてそういう縁起のいい言葉だったということを知りました。

しかし、現実には真珠湾攻撃の圧倒的な勝利の後、その奇襲の故に強大な軍事大国であったアメリカの怒りを買って、時間の経過とともに各地で敗退し、沖縄戦での敗北と広島・長崎の原爆投下で決定的なダメージを受けたのちに敗戦を迎えることになったのです。

日本人だけでも戦闘員・非戦闘員数百万人の犠牲者を出した太平洋戦争。今となっては「トラ・トラ・トラ」に象徴されるような神がかりの国ニッポンの自国に対する過剰なほどの自信が、自らの破滅を導いたとのではないかと悔やまれるばかりです。

あれから70年。この貴重な歴史の体験者が80代以上となり世代交代が進んでいく今、若い世代が「トラトラトラ」の意味するところを真剣に受け止めなければ、ニッポンは再び同じ過ちを繰り返すことになりかねません。東日本大震災や福島原発事故を経験した2011年。国家の破局を招くのは戦争だけではありません。すべての日本人は、もう一度12月8日を振り返ることが求められています。  



2010年12月16日

【遺骨収集】
先が見えない時ほど、こういう場所に赴くことは重要なことかもしれません。

『菅直人首相は14日、羽田発の航空自衛隊機で、太平洋戦争の激戦地だった硫黄島(東京都小笠原村)を訪問した。日本兵の遺骨収集を進める政府特命チームの活動状況の視察が目的で、自衛隊滑走路の西側の調査現場を訪れた首相は、自らの手で土の中に埋まっていた遺骨を取り上げた。午後には戦没者追悼式に出席する。
 現職首相の硫黄島訪問は、2005年6月の小泉純一郎氏以来。菅首相は、民主党代表代行を務めていた06年9月に訪れたことがある。
 硫黄島では日本兵約2万2000人が戦死したが、09年度までに収集した遺骨は約8700体にとどまっている。今夏に米国で実施した資料調査で、約2200体が埋められたとみられる場所がほぼ特定されており、特命チームが発掘調査を進めている。』(12月14日付時事通信)


【栗林中将の最期】

僕がこの記事を取り上げたのは、週末の出張のため、福岡空港で飛行機を待つ間に立ち寄った本屋で見つけた「硫黄島 栗林中将の最期」(梯久美子著、文春文庫)に目がとまり、一気に読んだところだったからです。もちろん、数年前に読んだ「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」(梯久美子著)やクリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」などを見ていたので硫黄島にことのほか興味を持っていたこともあります。

その「硫黄島 栗林中将の最期」には、梯氏の丹念な取材により硫黄島に関わるいくつかの驚くべき事実が明らかにされていました。その中でも最も僕の胸を打ったのは最期の一篇「美智子皇后 奇跡の祈り」でした。そのドキュメントには、美智子皇后さまがマスコミの心ないバッシングで声を失った平成5年10月の誕生日からおよそ5カ月を経た平成6年2月12日に硫黄島に戦没者慰霊訪問をされたときに奇跡的に声が戻ったというお話でした。それまでもひたすら太平洋戦争で亡くなられた戦没者の慰霊の旅を続けてこられた美智子皇后さまが誰にも邪魔されることのない硫黄島というかつての激戦地で、約2万人もの戦没者の方々の声なき声に耳を傾けひたすら祈り続けたときに、失っていた声を取り戻されたというのは本当に不思議な、しかし祈り続けた皇后さまだからこそ起こったことだと思いました。

やはり、太平洋戦争で失われた数百万人にものぼる戦没者の方々があってこそ今の日本の繁栄があるのだということ、そしてその象徴が硫黄島であることを私たちは忘れてはいけない。今の日本の混迷も、この原点に戻ることが大事ではないか、政治家たちは特にそうであるべきだと思うのは僕だけでしょうか。

菅直人首相もスケジュールをこなすだけでなく、是非美智子皇后さまを見習ってひたすら硫黄島で祈り続けてほしいと思いました。  



2010年12月08日

【画期的試み】

米国人研究者が立ち上げました。

『太平洋戦争中の空襲について日米両国の資料を集めたインターネットのサイト「日本空襲デジタルアーカイブ」が11月末開設された。「空襲で何が起きたのか」を米国人はあまり知らない、などと感じた在日米国人らが作成。空襲被害者の証言動画も字幕付きで紹介、日本にいながら米国側公文書も閲覧できる新たな取り組みだ。「空襲の実態を世界に広めたい」と意気込み、日本人研究者の支援も求めている。

 作成したのは、20年近く前に来日し、神奈川県小田原市で英会話教室を経営するブレット・フィスクさん(37)と、日本近代史などを研究するニューヨーク市立大のケリー・カラカス准教授(39)。

 フィスクさんは、太平洋戦争が題材の日本語小説を執筆しており、空襲体験記を読み、子供をかばって火の手に包まれた父の姿など残酷な記録に心を痛めた。「米国では空軍の視点からの情報しかない。地上の市民の実態を知ることが重要」と考えたという。

 研究のため来日中にフィスクさんと知り合ったカラカス准教授が、今夏から米国立公文書館(ワシントン)などに通い詰め、資料のデジタル化を進めている。

 掲載した米国側公文書は、空襲の包括的調査記録「戦略爆撃調査団報告書」▽B29乗組員用マニュアルや作戦任務報告書▽空爆時に撮影された東京、名古屋、大阪など主要都市の写真--など。大量の爆弾が投下され、白煙を噴き上げる福岡の街並みや、原爆で破壊された範囲を示す広島の写真など生々しい資料が並ぶ。

 その一方で、その時に地上で何があったのかを伝える空襲被害者の証言も撮影。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲などの体験者4人の動画を字幕付きで載せた。日本語の空襲関連書籍も紹介する。今後、資料を充実させたいという。

 東京大空襲で父と姉を亡くした体験などを語った清岡美知子さん(87)=東京都練馬区=は「一夜で約10万人が死亡し、特に女性や子供が多く犠牲になった実態を、米国人には知ってもらいたい」と話し、海外へ発信できることを喜ぶ。

 フィスクさんは「空襲体験者は高齢化して次々と亡くなっていく。1人で証言者を捜して撮影していくのは限界がある」と話し、空襲資料の提供などについて同サイト(http://www.japanairraids.org/)で協力を呼びかけている。』(12月6日毎日新聞)

【ここ5年が勝負?】

もう太平洋戦争が終結してから65年にもなります。ということは戦争の記憶がある方々はすでに75歳を超えているということになります。すなわち、戦争について本当のことを自らの言葉でしゃべれる人がいて、その方々に貴重な体験を語ってもらう時間はもうあまり残されていないということです。

最近はNHKが次々と高齢になった戦争体験者に戦争に関する生々しい体験を語ってもらう番組を放映していますが、今回の米国人研究者の試みは米国側から見た空襲の実態を様々な公文書や写真から発表していること、ウェブによるアーカイブというカタチをとることでより多くの人が閲覧することが出来ること、さらには戦争体験者の語る体験談を動画として掲載していることなど画期的なものだと思います。

僕も70歳から80歳になられる戦争体験者の方々に話を聞く機会を出来るだけ持ちたいと思っていますが、このサイトを閲覧することもそれらの方々に話を聞くのと同じくらい貴重な経験になると思います。

是非、みなさんも一度ご覧になって見てはいかがでしょうか。

≪参考≫

・「日本空襲デジタルアーカイブ」→ http://www.japanairraids.org/
  



2010年11月05日

【子供たちの創作劇】

清々しい秋晴れとなった11月初旬、福岡県新宮町で開かれた第17回朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会に参加しました。そこで上演された子供たちによる創作劇は、子供たちの熱心でかわいらしい演技とともに今の日本の外交という大きなテーマにつながる問題を考えさせられる素晴らしいものでした。

その劇とは「石の唄ひびけ」というタイトルで、江戸時代に、朝鮮からの通信使が11回もやってきた福岡県新宮町の相島という小さな島で島民たちがその準備のために石の波止を造った話です。

【朝鮮通信使の接待】

江戸時代に500名近い朝鮮からの通信使たちの、釜山から江戸までの長旅の最初の起点である福岡藩が通信使の接待場所として、200年近い間に11回も立ち寄った相島。最初の接待が行われたのは実に400年も前のことでした。500名もの通信使の接待ですから、小さな漁船しか寄港できなかった相島の海岸にふたつの石波止を造る必要が生じ、福岡藩が島民も駆り出して2カ月の突貫工事をさせたのです。

相島の島民だけでなく、朝鮮通信使が江戸へ行く途上で立ち寄った下関、上関、室津、大垣など全国各地で農民や漁民たちが接待のための食糧の提供など様々な賦役を課せられたのです。

しかし、朝鮮通信使たちは鎖国を敷いていた当時の日本よりもはるかに進んだ大陸文化をもたらしてくれましたし、何よりも日本各地の地方の人たちが心をこめて接待をした結果、日本と韓国の間には友好的な交流が行われたことが様々な古文書や資料から分かってきました。


【外交の基本】

今、日本と近隣国の中国、ロシアとの間には尖閣諸島問題や北方領土問題でぎくしゃくしています。もっとも近い隣人である韓国との間にも竹島問題という火種を抱えています。それもこれも太平洋戦争で日本がこれらの国の国土・国民に大きな迷惑をかけたことが根本原因なのですが、戦争終結後65年以上を経た今でもそのシコリは大きく、国と国とのレベルでは容易に解決できそうにはありません。

そんな時だからこそ、200年から400年前の先人たちと朝鮮通信使たちとの交流は多くの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。朝鮮通信使が最後に立ち寄った長崎県対馬。当時の対馬藩に仕えた儒学者雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)は外交の基本について、「互いに欺かず、争わず、真実を以て交わること」と述べています。

どちらかと言うと中国やロシアのほうがこの基本を忘れているようにも見えますが、相手がどうであれ、日本は常に「互いに欺かず、争わず、真実を以て交わる」ように辛抱強く交渉していくこと、そして日頃から民間レベルでの草の根外交を活発にして強固な信頼関係を築いていくことが大事ではないでしょうか。相島の子供たちの創作劇から教えられたような気がします。

みなさんはどう思われますか?  



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海や山、自然が好きな九州男児です。あらゆる機会をとらえて、時代の変化をいつも感じていたいと思っています。
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