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2012年06月01日

【巨匠、逝く】

地元の巨匠が静かに大往生を遂げました。

『赤い帽子の少女像や、パリ風景で人気があった洋画家、日本芸術院会員の織田廣喜(おだ・ひろき)氏が30日午後1時15分、心不全のため死去した。

 98歳。告別式は6月7日午前10時、東京都渋谷区西原2の42の1代々幡斎場。喪主は次男、きじ男氏。

 福岡県生まれ。苦学をして画家となり、1940年に二科展初入選。憂いを含んだ都会的な女性像など、独自のスタイルを築いた。95年、「夕やけ空の風景」で恩賜賞・日本芸術院賞。2006年から今年5月まで二科会理事長を務め、名誉理事長。福岡県に嘉麻市立織田廣喜美術館がある。』(5月30日付読売新聞)

【嘉穂の大画家】

嘉穂の地が生んだ大画家である織田廣喜さんについては、西日本新聞が詳しく書いているのでここに引用します。

『織田さんは、18歳のときに上京。芝居小屋の舞台絵描きや、黒子をしながら日本美術学校に学んだ。戦後は、駐留米軍施設の壁画などを描いて力をつけ1946年、女性たちを描いた「黒装」で二科賞を受賞、叙情性豊かな画風で人気画家の道を歩んだ。
 71年、二科展で「水浴」が東郷青児賞に、95年には日本芸術院賞・恩賜賞を受けた。2003年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエを受章。二科会常務理事を経て06年から、今年5月末まで同会理事長を務めた。福岡市城南区に織田さんの個人美術館「ミュゼ・オダ」が、郷里・嘉麻市には「織田廣喜美術館」がある。

 時空を超えて語り合うような女性たちの作品を多く手掛けた。たっぷりと絵の具をのせた絵筆からは、愁いを込めたロマンが広がった。「赤い帽子の少女」を好んで描いた。

 1983年、妻リラさんがくも膜下出血で倒れてからは、亡くなるまで約15年間、妻のベッドのそばで絵を描き続けながら介護を続けた。本紙では97~98年に聞き書き「絵筆とリラと」が連載された。』(5月31日付西日本新聞)


【ミュゼ・オダ】

このブログで織田廣喜さんを取り上げたのには実は理由があります。つい先月のこと、初代在福岡フランス名誉領事で音楽評論家、元「寿軒」経営者として有名な末永直行氏のご自宅にお邪魔したときに、古くから末永さんが親交があった織田画伯のために末永さんが自宅の敷地に建てた織田画伯の美術館「ミュゼ・オダ」を観させていただいてその優しい筆致の中に秘めた迫力ある画風に感動したこと、そして2010年8月、織田画伯の郷里である嘉麻市の織田画伯の美術館「織田廣喜美術館」に縁あって二度も訪問したことがあったことです。

実は「ミュゼ・オダ」の収蔵作品数は60点ほどでそう多くないのですが、織田画伯の600号、500号、300号といった大作が収められているのです。小さな美術館の入り口から地下に入ると空調の効いた地下室にそれらの作品は静かに収められていて、見る者を圧倒します。また、極貧時代の織田画伯の自宅での写真なども展示されていて、今は亡き画伯の姿を垣間見ることができます。ときどき織田画伯もふらっとこの「ミュゼ・オダ」に立ち寄られてあったそうです。

末永氏にお聞きすると、「ミュゼ・オダ」という美術館のネーミングは郷里の嘉麻市の美術館に敬意を表して、同じような名前ではなくフランス語でつけたとのことでした。

2年前に織田廣喜美術館を訪問したときには、常設展示室で美術館の館員の方から詳しく織田画伯のことについてお話を聞く機会もありました。

こんな巨匠が嘉麻という福岡の地元におられたということを知ったのは本当に幸運でした。織田画伯のご冥福を心からお祈りしたいと思います。

≪参考≫

・「家族の愛情―嘉麻市美術館と絵手紙」・・・2010年8月11日の僕のブログ記事
  




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