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2012年07月26日
【細野氏の発言公開】
民間事故調が行った細野氏などへのヒアリング内容が公開されました。
『細野豪志原発事故担当相が、福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)の聴取で、昨年3月15日に菅直人首相(当時)が東京電力本店に出向き「撤退はあり得ない」などと言った問題について、「日本を救ったと思っている」と話していることが24日、分かった。民間事故調が同日夜、聴取内容をホームページ(HP)上で公開した。
【フォト】 菅直人元首相の「虚言」と「悪あがき」
事故当時、首相補佐官だった細野氏に対しては、政府事故調や国会事故調も聴取しているが、すべて非公開で、細野氏への聴取内容が公になるのは初めて。
細野氏は、菅氏について「国が生き残るために何をしなければいけないかの判断は、すさまじい嗅覚がある人」と評価した。そのうえで「私は(菅氏のように作業員に)『残れ』と言うことには躊躇(ちゅうちょ)した。言えない」と述べている。
民間事故調は、報告書の中で、菅氏のこの時の行動を評価しているが、細野氏のこうした証言が強く影響しているとみられる。
一方、政府が作成しながら公表せず、批判された「最悪シナリオ」については、細野氏が作成を指示したと証言。公表しなかった理由については「数カ月かけて深刻な影響を及ぼすもので、その間に対応できると判断した」と説明した。
民間事故調は細野氏のほか菅氏▽枝野幸男経済産業相▽海江田万里前経産相▽福山哲郎元官房副長官-の4人の聴取内容も同日、公開。内容は民間事故調のHP(http://rebuildjpn.org/)で見られる。』(7月24日付産経新聞)
【菅氏の嗅覚と覚悟】
あの3月11日から15日というのは、本当に日本の一番長い日だったのではないでしょうか。もしかしたら、あの時点で日本は終わっていたかもしれない、それほどほんの一握りのリーダーたちのひとりひとりの判断がニッポンという国家そのものの存亡を決定づけた「魔の瞬間」だったと僕は思います。
その中心にいたのが一国の総理として陣頭指揮を執っていた菅直人前総理大臣でした。その菅氏の評価が未だに真っ二つに分かれていることはご存知のとおりです。
僕はそのときのブログにも書いていますが、次々と制御不能に陥る福島第一原発の状況に右往左往する東電幹部に対する不信感から菅氏が先ず現場を見に行ったのは細野氏の言うとおり、菅氏の鋭い嗅覚というか、胆力がそうさせたのであり、その後の現場への信頼感や統合本部の設置などによる事態収拾への道につながり、メルトダウンは防げなかったものの首都圏3千万人の避難といった破滅的事態から結果的に日本を救ったと思います。
なぜなら、あの時、原子力ムラと言われる東電、保安院、原子力安全委員会、数えきれないほどの御用学者、読売などのマスメディアはまったく無能で、状況把握や事態収拾の動きどころか、事態を悪化させ、混乱させるようなことばかりやっていたのであり、菅氏の「日本を救わなければならない」という覚悟なしにはその悲劇的ともいえる混沌とした状況からの脱出は不可能だったと思われるからです。
あれから1年半近くたっても、未だに何の反省もなくまたしても国民の安全をないがしろにしたまま原発の再稼働に突っ走り、再び原子力帝国の復活にまい進する原子力ムラの面々は恥を知れといいたい気持ちです。大本営発表のような報道ばかりしていた産経や読売もあの時なにをしていたか、よく胸に手を当てて考えてみるべきです。
≪参考≫
・「細野大臣に対する民間事故調のヒアリング内容」
・「菅首相の率先視察をどう見るか―福島第一原発 」・・・2011年3月31日付の僕のブログ記事
民間事故調が行った細野氏などへのヒアリング内容が公開されました。

【フォト】 菅直人元首相の「虚言」と「悪あがき」
事故当時、首相補佐官だった細野氏に対しては、政府事故調や国会事故調も聴取しているが、すべて非公開で、細野氏への聴取内容が公になるのは初めて。
細野氏は、菅氏について「国が生き残るために何をしなければいけないかの判断は、すさまじい嗅覚がある人」と評価した。そのうえで「私は(菅氏のように作業員に)『残れ』と言うことには躊躇(ちゅうちょ)した。言えない」と述べている。
民間事故調は、報告書の中で、菅氏のこの時の行動を評価しているが、細野氏のこうした証言が強く影響しているとみられる。
一方、政府が作成しながら公表せず、批判された「最悪シナリオ」については、細野氏が作成を指示したと証言。公表しなかった理由については「数カ月かけて深刻な影響を及ぼすもので、その間に対応できると判断した」と説明した。
民間事故調は細野氏のほか菅氏▽枝野幸男経済産業相▽海江田万里前経産相▽福山哲郎元官房副長官-の4人の聴取内容も同日、公開。内容は民間事故調のHP(http://rebuildjpn.org/)で見られる。』(7月24日付産経新聞)
【菅氏の嗅覚と覚悟】
あの3月11日から15日というのは、本当に日本の一番長い日だったのではないでしょうか。もしかしたら、あの時点で日本は終わっていたかもしれない、それほどほんの一握りのリーダーたちのひとりひとりの判断がニッポンという国家そのものの存亡を決定づけた「魔の瞬間」だったと僕は思います。
その中心にいたのが一国の総理として陣頭指揮を執っていた菅直人前総理大臣でした。その菅氏の評価が未だに真っ二つに分かれていることはご存知のとおりです。
僕はそのときのブログにも書いていますが、次々と制御不能に陥る福島第一原発の状況に右往左往する東電幹部に対する不信感から菅氏が先ず現場を見に行ったのは細野氏の言うとおり、菅氏の鋭い嗅覚というか、胆力がそうさせたのであり、その後の現場への信頼感や統合本部の設置などによる事態収拾への道につながり、メルトダウンは防げなかったものの首都圏3千万人の避難といった破滅的事態から結果的に日本を救ったと思います。
なぜなら、あの時、原子力ムラと言われる東電、保安院、原子力安全委員会、数えきれないほどの御用学者、読売などのマスメディアはまったく無能で、状況把握や事態収拾の動きどころか、事態を悪化させ、混乱させるようなことばかりやっていたのであり、菅氏の「日本を救わなければならない」という覚悟なしにはその悲劇的ともいえる混沌とした状況からの脱出は不可能だったと思われるからです。
あれから1年半近くたっても、未だに何の反省もなくまたしても国民の安全をないがしろにしたまま原発の再稼働に突っ走り、再び原子力帝国の復活にまい進する原子力ムラの面々は恥を知れといいたい気持ちです。大本営発表のような報道ばかりしていた産経や読売もあの時なにをしていたか、よく胸に手を当てて考えてみるべきです。
≪参考≫
・「細野大臣に対する民間事故調のヒアリング内容」
・「菅首相の率先視察をどう見るか―福島第一原発 」・・・2011年3月31日付の僕のブログ記事