2008年03月28日
亡くなられた假谷さんのご家族や関係者の方々の怒りと悲しみは如何ばかりかと本当に胸が痛む事件です。
『「絶対に許せない」。JR岡山駅で県職員假谷国明さん(38)がホームから突き落とされ、電車にはねられ死亡した事件で、假谷さんの通夜が27日、倉敷市の斎場で営まれた。小雨の中、同僚や友人ら約200人が突然の死を悼み、容疑者の少年(18)への怒りをあらわにした。
弔問客の焼香の間、假谷さんの妻寿子さんは泣き崩れ、幼い娘2人は父の死を理解できない様子。親族の男性が「お忙しい中ありがとうございました。故人も喜んでいると思います」とあいさつしたが、事件には触れなかったという。』(3月27日付時事通信)
【行きずり殺人の恐怖】
何の罪もなく、何の関係もない人の命をもてあそぶ少年の心の闇。最近、そういった類の事件があまりにも多すぎる。今回のJR岡山駅でのホーム突き落とし事件の直前には、金川真大容疑者(24)が茨城県で面識のない8人もの通行人を殺傷する事件があったばかり。
この手の無差別殺人事件の犯人は若い男性が多く、動機はまったく見えないというのが特徴だ。そして最近日本全国で急増しているのだ。
毎日通勤に電車やバスを利用するサラリーマンとしては、恐怖を感じないわけにはいかない。まして、JRを利用して通勤している僕はいつもホームの一列目に立つことが多いのだ。これからは決して一列目には並ばないようにしようとは思うものの、自分だけが助かればいいという問題でもない。
【実感のない「死」】
一体、何故これほど無差別殺人が増えているのか?なぜ若者は何の動機もなく人をいとも簡単に殺すのか?
おそらく最も大きな原因は、月並みながら教育の荒廃だろう。人としてのあり方を身体を張って教える教育が家庭でも、学校でも行われていないのだ。
確か養老孟司の「バカの壁」の中に書いてあったが、僕達も含めて現代社会は人の「死」を目に見える日常の世界から隔離することで、人々が「死」の実感をもてなくなっていることが、今日のような無差別殺人の増加といった殺伐とした社会状況を作り出しているのかも知れない。
「死」について真剣に考えることは、かけがえのない「生」を実感することにつながるのだ。もう一度ひとりひとりが真剣にどう死に向き合うかを考える必要があるのかもしれない。JR岡山の事件を知ってそんなことを考えた。みなさんはどう思いますか?
最後に不幸にして亡くなられた假谷さんのご冥福を心よりお祈りします。
永く青春期の若者の人間形成の教育現場に関わる仕事をしてきて、日々を彼ら/彼女等に向き合っているのですが、行状謂い難い頻度が多くなってきているということです。横の同世代のコミュニケーションが取れないというような事象は数年前からもう常識みたいなことなのですが、ここのところ、信頼を寄せて任せる比較的芯のある生徒/学生がいとも簡単にとんでもない振る舞いをしてくれるケースに出会うのです。小生は、突き放さずそして抱え込むように諭し、月1の割で私塾的な真面目で芯のあるゼミをやったあとに、私弁の飲み会セミナーをキャンパス近くの居酒屋で周りの社会人(大半は定位なった方々)の協賛で、人生を語り合っております。そこで成長をみるものもおれば、キャンパスでの対応の姿勢そのままで(替えることないまま)遠ざかっているのもいます。ただ、「来るもの拒まず」で開襟にしております。称して「環境経営研究会ゼミ」(第三周木曜夜)。また、昨年度までは2年から4年ゼミ挙げての「百姓(泥んこ田植え、アイガモ、手鎌稲刈り)を続けて参っています。5アールの稲刈りを40名で済ませた晩は田舎の秋祭りを村人たちと堪能してきました。この年間行事も、今年は小職の役職責上取りやめますが。教育現場では、よく古参教員同士で話しています。「昔は学生運動家対策に追われたが、いまでは<大学教育に着いて行かない学生>対策(人間形成、キャリア形成)が教学の最難関です」。
Posted by 富山通りもん at 2008年03月28日 07:04
富山通りもんさん、コメントありがとうございます。学校だけでなく、職場でも同じような事例はいろいろなところで起こっているようです。特に義務教育の現場では精神を病む先生方が多いと聞きます。こんな状況を放置していたらますます社会の歪みは子供達に伝染していくのでしょう。なにか根本的な変革が必要なのかもしれませんね。
Posted by luckymentai at 2008年03月28日 23:48